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白井 海斗さん(前編)

Moderna- 7 November 2023

サッカーの夢を絶たれ、サッカーの縁に導かれた道へ<前編>

 小さな頃からスポーツに打ち込み、いつしかプロになることを夢見る少年たち。彼らの多くは実力の壁に阻まれてプロになることを諦めてしまいます。ところが中にはプロとして活躍できる十分なポテンシャルを有しながら、無念のうちに諦めざるをえないケースもあります。

🇯🇵Japan > Interviews - Kaito Shirai (part 1)

白井海斗さんは日本のプロのサッカーリーグであるJリーグへのクラブ入りを目指し、幼少期からサッカーを続け、関東大学サッカーリーグで活躍。周囲からも将来を嘱望されていました。しかし持病が原因で、その道を絶たれてしまったのです。乗り越える術がない壁、別の舞台に立つ決断、またそこで見つけた夢。その決断は、モデルナのマインドセットの一つ「私たちは、勇敢に方向転換します」に重なります。若くして直面した困難からのこれまでと、新しい道を歩み始めたこれからについて、お話を伺いました。

幼少期からサッカーを始め、非凡な才能を発揮

白井さんがサッカーと出会ったのは3歳の頃。公園でサッカーボールを蹴る兄を追いかけて、一緒に遊び始めたのがきっかけとのこと。そして幼稚園に入園する頃には本格的に取り組むようになったそうです。

 「幼稚園にある部活のような集まりのほか、当時住んでいた横浜の地元のクラブチームにも所属していました。幼稚園児のサッカーといえば、みんなでボールを追いかけて団子状態になるのが普通の光景ですが、僕は一歩引いた所にいて、こぼれてきた球をシュートしていたタイプでしたね。僕のサッカー人生の最盛期はその頃だと思っています(笑)」

 小学校に上がると近所の少年団に所属し、そこでもほかの子どもたちとの実力差を自覚できるほど活躍。多くの少年が無邪気に憧れるのと同様、いつしか「Jリーグの選手になりたい」と口にしていたそうです。

 そして白井さんが自身の病気について知ったのもこの頃でした。

 🇯🇵Japan > Interviews - Kaito Shirai (part 1) > image 2

入江サッカースポーツ少年団(小学生)のころの白井さん

「病院には毎年検査のために通っていたんです。幼心に疑問はありながらも、理由はわかりませんでしたが。それが3年生か4年生ぐらいのときにいつもと違うカテーテル検査を受けることになって、両親になぜ検査を受けないといけないのか理由を聞いたんです。そのときに心臓の病気、エプスタイン病であることを知らされました。生まれつきの病気ですが、やっと自身でも認識できたという感じですね。たぶん両親も隠していたわけではないんでしょうけど」

 エプスタイン病は右心房と右心室を隔てる弁が発達不全となる先天性心疾患の一つ。日本では約300人の患者がいると言われる指定難病です。弁の発達不全が血液の逆流を引き起こし、年齢と共に不整脈や心不全のリスクが高くなりますが、その程度は人によってさまざまで、生まれた時から発症しているケースもあれば、成人するまで症状が見られないケースもあり、白井さんは後者でした。

 「今までに動悸や胸の痛みといった症状を感じたことはありません。サッカーについても特に制限は受けませんでしたし、プロを目指していたので両親も応援してくれていました」

 エプスタイン病は、ごく軽症のケースではスポーツを制限されることはないそうです。しかし多くの場合、いずれ心臓手術を要すると言われており、先行きの不安は大きいはず。ましてや子どもであれば、ご両親も心配する気持ちがなかったとは言えないでしょう。その気持ちをぐっとこらえ、応援してくれたご両親の愛情に育まれながら、白井さんはサッカーと向き合っていました。

高校、大学と結果を残し、スカウトの目にも留まる

 中学生になると清水エスパルスの下部組織、ジュニアユースのセレクションに合格を果たしました。

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清水エスパルスジュニアユース(中学生)のころの白井さん

 「少年団のときは上位の実力だと思っていましたが、ジュニアユースになるとさすがに周りのレベルが上がりましたね」

 そんな中で努力を重ね、ライバルたちと切磋琢磨しながらサッカーに打ち込んだ結果、中学3年時に受けたユース年代への昇格審査に合格。3年間で実力を磨き、上の世代になるにしたがってピラミッドを登るように人数が絞られる育成システムを、見事に勝ち抜いたのです。

 しかしこのとき、初めてサッカー人生に暗雲が垂れ込めました。

 「一応合格はいただいたんですが、メディカルチェックを受けた後にチームのスタッフさんに言われました。ユースはプロを輩出するための育成機関である以上、いずれJリーグに上がるときに持病が規定にひっかかることになり、残念ですが厳しいですと」

 プロ以前の関門で受けた、プロにはなれないという宣告。しかしサッカーが好きでずっとプロを目指してきた思いは、そう簡単には断ち切れません。

 「少しでも可能性はあるんじゃないか、実力を示せればどうにかなるんじゃないかという期待もありましたし。それにユースへの思いとは別に高校サッカーへの憧れもあったので、高校でサッカーを続けようと気持ちを切り替えました」

 白井さんが進学した清水桜が丘高校は、高校サッカーの名門校・清水商業高校が再編された高校。清水商業は元日本代表の名波浩氏、大岩剛氏、藤田俊哉氏といった日本サッカー界におけるレジェンド選手を輩出しており、現在も清水桜が丘はその血脈を受け継いでいます。そんなチームの中で白井さんは1年生時から公式戦に出場し、全国高校サッカー選手権大会静岡大会で決勝ゴールを決めるなど存在感を見せつけました。さらに3年生の時にはキャプテンを務め、エースとしてチームを牽引するまでに成長。当時からスポーツメディアで活躍ぶりが取り上げられるほどでした。

 高校卒業後は、大学リーグでサッカーを続けるべく順天堂大学に進学。順天堂大学は関東大学サッカーリーグ1部常連の強豪校で、インターカレッジや関東リーグでの優勝、天皇杯でJ1のプロチームに勝利するなど輝かしい成績を誇ります。

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清水桜が丘高校のころの白井さん

 「チームメイトも病気のことは全員知っていましたが、僕自身に自覚症状があるほどでもなかったので、特に気をつかわれることはなかったですね。ただ順天堂大学には医学部や病院もあるので、安全管理の面は手厚かったです。AEDを設置してくださったり、監督にもいろいろと対応していただきました。静岡から千葉に移ったことで定期検診も順天堂大学医学部附属の順天堂医院で受けるようになりましたし、そういう意味ではとても心強かったです」

 大学では持病に対するサポートが手厚く、よりサッカーに打ち込める環境になったようです。しかしすでにプロにはなれないと宣告された身として、将来に不安を覚えることはなかったのでしょうか。

 「特に不安は抱えていなかったと思います・・・いえ、いま振り返ると考えるのを避けていた部分もあります。そもそも実力がなければプロになれないのは事実ですから。とにかく病気のことは考えず、結果を示すことで認めてもらいたいという思いが強かったですね」

 現在はJリーグや海外リーグで活躍しているような先輩たちと肩を並べ、1年生の時から試合に出場。大きな大会でも実力を示し、スカウトからも注目されるようになりました。

プロを断念し、一般企業への就活に方向転換

 大学3年生の1月にもなると、周囲の友人から自然と「就活」という言葉が耳に入ってくるようになります。

 「自分でも進路について区切りをつけないといけないという思いはあって、病気のことをサッカー協会の審査にかけてもらえるよう、順天堂大学で診てもらっていた医師にお願いしました。そのときはまだプロになれるんじゃないかという少しの希望と、現実を受け止めないといけないという気持ち、両方があった感じです」

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順天堂大学のころの白井さん

2月末に医師に相談し、電話で知らせが来たのは約1カ月後。結果は、メディカルの規定に則りプロにはなれないというものでした。

 「連絡をいただいたのは、二部練習の前半と後半の間の家にいたときでした。チームメイトも部屋にいたので『やっぱりダメだったよ』と明るい調子で報告して、練習前には監督に、両親には夜に伝えました。言葉にするたびに余計に身に沁みてきましたね。悔しいな、やっぱりプロサッカー選手になりたかったなって思いが込み上げてきて、涙が止まりませんでした。この日から2週間ほどが人生でもっとも落ち込んだときです」

 これまでわずかながらも希望を持ちサッカーを続けてきましたが、最終通告を突きつけられ、しばらくは何も手につかなかったと言います。そんなどん底の時期を支えてくれたのは、同期のチームメイトや友人たちでした。

 「どう気持ちを切り替えようとか、就活をどうしようとか、そんな前向きな話ができる状態ではありませんでした。ただ話をして発散するだけでしたが、近くに仲間がいるというのはとてもありがたかったです」

 長い時間を共に過ごした仲間の存在が白井さんを支えてくれたと言います。しかしこれからもJリーグや社会人リーグでサッカーを続けられる友人と対したとき、サッカーができない者としては分かち合えない部分も大きかったのではないでしょうか。

 「『おれの分も頑張ってプロを目指せよ』『プロになって活躍するよ』みたいなやりとりもありました。自分の思いを仲間に託すって、はたから見たら白々しいことかもしれません。でも当事者としてはとてもありがたいことだったなと今でも思います。友人たちには本当に頑張ってほしいと思いましたし、そういうやりとりがあったからこそ自分も方向転換して頑張らなきゃという気持ちにつながりました。彼らには本当に感謝しています」

 日本でプロとして活躍することは叶わないものの、東南アジアなどのリーグなら規定にかからずサッカーを続けられる可能性もありました。しかし言葉の壁、病気の管理やケアの問題を考えると、進路の選択肢には入りませんでした。また大学では教職課程の単位を取得していたため、高校時代の恩師にプロ入り断念の報告をした際は教師になるよう強く薦められたそう。そういった声も含めて考慮した結果、一般企業を対象に就職活動をして、残りの関東大学リーグの試合に集中することに決めました。

 それまで目を向けていなかった方向に舵を切ることになった白井さんですが、さまざまな戸惑いもあったようです。後編では、就職活動に際して思ったこと、今の会社を志望した理由、社会人としてのこれからについて伺います。

◆プロフィール

白井海斗(しらいかいと)

神奈川県出身

先天性の指定難病「エプスタイン病」を患いながら、幼少期からサッカーに打ち込む。プロサッカー選手を目指し高校・大学とサッカー部で実績を挙げるも、日本サッカー協会の規定のためプロを断念。2022(令和4)年より、体育会系学生の就職活動やプロアスリートのセカンドキャリアを支援する株式会社Maenomeryに勤める。

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